川崎から伊勢原まで行ったけど死ねなかったお話

結論から言うとタイトル通りなんだけど、もう少し丁寧に、私に起こったことを整理しようと思う。

 

このブログでも何度も書いているが、私は双極性障害II型と診断されていて、今まで何度も鬱を経験し、その度に乗り越えてきた。

 

2023年には精神科閉鎖病棟への1ヶ月の入院も経験した。

 

その後は、多少の気分の波はあれど、大きく揺らぐことは少なく、2026年になった。

 

しかし、だ。

 

2026年2月、つい今月のこと。

 

大きな鬱の波がやってきた。

 

食事も摂れなくなり、しばらく動けなくなった。

 

最近の私は、お金のこと。そして、家族のこと。

 

色々な悩みがあった。

 

それが不運にも重なってしまった。

 

母親と話していたら、つい私が泣いてしまった。

 

泣きじゃくって何も喋れなくなった私に、母は、「言わななんもわからん!」と怒鳴りつけた。

 

その瞬間、私の中の何かが壊れた。

 

そして、2026年2月18日のこと。

 

つい昨日のことだが、その日はよく晴れていた。

 

仕事を休んだ私は、家にいるのが嫌で、散歩にでも出ようと思った。

 

最初は、家から歩いて1時間ほどの神社まで行くつもりだった。

 

でも、Googleマップを見ていると、なんとなく、山に行きたくなった。

 

Googleマップで色々探すと、私が住んでいる神奈川県内には、大山という山があった。

 

そうだ、山だ。

 

とりあえず行けば、なんとかなると思った。

 

最初はそんなつもりではなかったけれど、外に出ると、私の足は確かに駅に向かった。

 

最寄駅から電車に揺られた。

 

登戸駅で小田急線に乗り換えた。

 

そして、伊勢原駅に着いた。

 

駅近くのホームセンターでロープとハサミを買った。

 

バスに乗って、大山ケーブル駅方面に向かった。

 

ケーブルカーの終電はもう無くなっていたけど、とりあえず向かった。

 

終点の大山ケーブル駅でバスを降りると、もう日は暮れかかっていた。

 

山方面に向かって歩き出したはいいものの、意外と、民家が多い。(伊勢原市民の皆様、ごめんなさい)

 

どこかから山の奥の方に入っていけるかと思ったものの、ズラッと民家が軒を連ねていて、入っていける隙間がない。

 

不法侵入になるのも嫌だ。

 

山のある程度上まで歩いたら行き止まりになったので、仕方なく下った。

 

山を下っているうちに、すっかり暗くなってしまった。

 

大山の道は街灯はあるもののとても暗く、歩行者が一人も通らない。

 

そんな道を、文字通り独りでとぼとぼ歩いた。

 

真っ暗で、10メートル先もよく見えない一本道は、何かを示唆している様だった。

 

そのうち歩き疲れて、バス停でバスを待つことにした。

 

次のバスまでは20分ほどあった。

 

空を見上げると、地元川崎では信じられないほど美しい星空が広がっていた。

 

ちょうど空の真ん中にオリオン座が広がっていて、川崎ではせいぜい真ん中の三つ星と冬の大三角くらいしか見えないが、大三角の間の暗い星まで、よく見えた。

 

私は何をしてるんだろう、と思った。

 

そして、私はそのまま伊勢原駅行きのバスに乗り、帰路に着いた。

 

あの夜空は、暗い道は、もしかしたらいつのまにか本当に死んでしまったのかと思うくらい、美しかった。

 

そして、あの夜確かに、私の中の何かが、「死んだ」。

 

この出来事をスレッズに書き込んだら、実にたくさんの方々が、優しい言葉を残してくれた。

 

その中のお一人が仰っていたが、私は確かに、山に「呼ばれた」のだと思う。

 

大山には、小さな神社や祠がたくさんあった。

 

そこに祀られている神々一人一人に、私は呼ばれて、お話をしてくださったんだと思う。

 

ただ伊勢原まで行って無意味に彷徨っただけの人になったけれど、絶対に忘れられない夜になった。

 

伊勢原の皆さん、ありがとうございました。

 

今度は、ゆっくり観光しに来ます。

 

この世に希望が持てなかったとしても、空は見てるんだなと感じた出来事でした。

コンサータ、辞めてみることにしました

コンサータを、辞めてみることにした。

 

コンサータとは、ADHDの諸症状の緩和に使われる薬のことだ。

丁度一年ほど前、私は精神科の主治医に勧められてコンサータを飲み始めた。

これを飲むと、一たび世界は静かになって、視界はクリアになった。10年間放置していた自室を、一気に片付けたりした。

レーシック手術を受けた近眼の人のように、最初は感動したものだ。

 

でも、何故だろう。

だんだんと違和感が生じてきた。

日々の仕事や雑事には、格段に集中できるようになった。

なんだろう。

この、自分が自分でなくなるような感覚。

読書も、あんなに好きだった文章を書くことも、楽しめなくなった。

取るに足らない仕事や用事に紛れて、いつしか忘れてしまった。

インプットもアウトプットも、出来なくなった。

それでも、私はこの1年間、ほぼ毎日欠かさずコンサータを飲み続けた。

コンサータを、きっぱりと辞めるのは、勇気が要るからだ。

飲まなければ、眠気が酷くて、仕事に集中できなくなる。

それが怖かった。

臆病な私は、いまいち踏ん切りがつかずに、なんとなくコンサータを飲んでいた。

でも、それで本当にいいのだろうか、という思いが強くなってきた。

あんなに楽しかった読書も執筆も辞め、毎日同じことの繰り返しだ。

取り戻したい。

失われた私のクリエイティビティを、もう一度。

もう一度、挑戦したい。

私はそう思った。

ただ、今でも怖い。

遅刻もせず毎日ちゃんと仕事に行って、安定した収入を得た方がいいのではないか。

今の仕事に行けなくなっても、執筆で収入を得られるなど到底想像できない。

でも、それでも。

やりたいことを、ちゃんとやりきってみたい。

好きなことを続けることは、怖いことだ。

常に不安が付き纏う。

でも、勇気を出して、やりたいことをしたい。

そのためには、薬を辞めなくてはならない。

精神科の主治医に相談したら、あっさり断薬の許可が出た。

新しいコンサータは処方してもらっていない。

もう後には引けない。

とても不安で仕方ないけど、やるだけやってみよう。

読書や音楽や、執筆をもう一度楽しめるように。

自分を、取り戻すように。

私は、夢を追いたいわけではない。

勘違いして欲しくないのだけれど、何も小説やなにかで一山当てて、有名になろう、なんて欲望は微塵もない。必ずしも、それを生業にしたい訳ではない。

薬を辞めて好きなことに集中すれば、その努力が必ず実る、なんて言う訳じゃない。自分に才能があるなんて、驕り昂るつもりもない。

ただ、自分らしく居たい。

その為の闘いなんだ。

好きなものは好きなんだ。

忘れていたその気持ちを、少しずつ思い出していくリハビリをしよう。

頑張ろう。

とても怖いけれど。

最初の一歩を踏み出そう。

私が、私らしくあるための、その一歩を。

Depression& A Creative Journey

最近、また体調を崩している。

うん、「また」なんだ。済まない。

昔から私のことを知ってくれている人は、「またか」と思うだろう。

最近、仕事のことで悩みがあって、そこからあれよあれよと転落していった。

今は仕事を休み、ほぼ引きこもり、寝たきり状態だ。

ちょうど持病である双極性障害の鬱の波がやって来る周期と、仕事のことや色々な悩みが最悪のタッグを組んだのだろう。

ところで、私のブログを見返すと、私は去年の夏頃にひと月ほど、精神科の閉鎖病棟に入院している。

退院してから半年あまり、調子が良く安定した状態が続いていたが、そう長くは持たなかった。

はて。

私は首をかしげる

鬱が来るスパンが、少し短くないだろうか。

双極性障害を持っている患者の中でも、躁と鬱が交代する期間は人それぞれ、千差万別だが、躁と鬱、または混合状態が短いスパンで入れ替わる、所謂「ラピッドサイクラー」と化していないだろうか。

まあ、その辺の不安は追々主治医と相談してみることとする。

閑話休題

アルバイトではあるが健常者と同じ枠で三年働き、漸く向いていないらしいという事実と向き合うことができた。

結局私は、障害者。

体調も不安定だし、能力面でも不安がある。

健常者と同じ土俵で戦うことは、できない。

仕事を辞めるのはいいものの、問題は辞めたあとどうするのか、である。

とりあえず、障害者雇用の求人サイトを見てみるも、そこには厳しい現実があった。

障害者雇用とは言うものの、やはり求められているのは、安定した勤務ができる人。

しかし、体調が安定して週五で朝から働くことができれば、それはもはや健常者と言っても過言ではない(いや、過言か?)。それができないから、障害者手帳を取っているのだ。

障害年金や就労移行支援施設について調べてみても、よくわからない。

働かなければ、どうするのだ。

誰が、私の生活の保障をしてくれる。

ひどく不安になった。

判断力や理解力がひどく低下した頭で必死に調べても、どうすればいいのかわからない。

不安ばかりが大きくなった。

ここ数日の私は、毎日泣いてばかり。

彼氏との電話中にも泣いてしまった。

電話越しとはいえ、私が誰か人の前で泣いてしまうなんて、相当珍しいことだ。

かなり追い込まれていた。

自分の部屋でぼんやりしていると、思わず結んでしまったカーテンレールの麻ひもが目に飛び込んできた。

すると、衝動的にパソコンを開き、執筆途中の小説をダダっと書き進めた。

私は遅筆な方だが、我ながら一気に進んだ。

しばらく、書く気になれなくて、パソコンすら開かなかった。

しかし、急に創作意欲が湧いてきた。

しばらく書いて、改めてこう思った。

私は、書くことが、好きだ。

そして、ほんの思いつきで、閃いた。

なんか、ライターの仕事とか、ねえかなあ。

色々調べてみて、えーっと、なんて言ったっけ、そうそう、「クラウドソージングサイト」なるものに、登録してみた。

説明しよう!

クラウドソージングサイトとは、なんか副業とかフリーランス?とかに使える、自分で仕事の案件を探したり、クライアントからスカウトが来たりするやつのことである!私もよくわかっていない!

とりあえず登録したはいいものの、ここにも罠が。

そのサイトで検索してヒットするライター系の仕事の案件に、ちっとも興味を惹かれないのだ。

いやいや、未経験の素人なんやから、興味を持てん仕事もとりあえずやってみんのが筋っちゅうもんちゃうんかい、と思われるかもしれないが、とりあえず案件の一例を挙げてみる。

「スカッと系YouTubeのシナリオ・台本の作成」「海外の反応まとめ系動画のシナリオ作成」「2chおもしろ系のシナリオライター

などなど。

特に私がふざけていると思ったのは、「アダルト系動画を観てタイトル・サムネ・タグを付ける」という案件だ。

なんか、いくら未経験とはいえ、それらの仕事をやってその実績が実際に私のキャリアになるとは到底思えなかった。

もちろん、最初はそんなものなのかもしれない。

しかし、そこから広がる将来が見えなかった。

文章で金銭を得ようと思った私が馬鹿だった。短絡的だった。

遠回りのように思えても、地道に自分の創作活動を続けて、賞に応募したり、インターネットで公開してみるのが結局は一番の近道なのかもしれない。

とりあえず、今執筆中の新人賞に応募する予定の作品をしっかり書き上げよう。

浮気してスマンカッタ。

お金のことや、将来の不安のあまり、おかしくなってしまっていたかもしれない。

当分のお金のことは、きっとなんとかなる。

なんとか食いつなぎながら、焦らず少しずつ、考えていこう。

自分を落ち着かせるように、私はそう思った。

 

p.s.

このブログの総アクセス数が1000を超えていました。いつも見てくださる方はもちろん、ちょろっとでも覗いてくださった方も、ありがとうございます。

ダラダラと雑感を綴るだけのブログとなりますが、これからもよろしくお願いします。一緒に頑張りましょう。

創作と承認欲求

応募したいと思っている小説の新人賞の締切が、あと半年を切った。

あと原稿用紙30枚分ほど書かなければならないので、最近は結構頑張って書き進めている。

でも、正直、ここまで来て心が折れそうな自分がいる。

TwitterSNSを見れば、絵や音楽、文章、色々な分野で自分の才能を遺憾なく発揮している人がたくさんいる。

そんな中で、自分は戦っていけるのだろうか。

そんな不安が過ぎる。

インターネット、特にSNSというプラットフォームでは、イラストや漫画が伸びやすい。

ただでさえ読むのに時間がかかる小説や文章で、わざわざ時間を割いて私の文章を読んでくれる人などごく少数だ。

わざわざ私の文章を読んでくれる方々には有難いと思いつつ、やっぱり需要がないのかなぁと自信がなくなる。

誰にも読んでもらえないなら、やめてしまおうかなと思う。

SNSや周りの反応だけが全てじゃない。

そうわかっていても、知らず知らずのうちに反応を求めてしまう自分がいる。

その度に、結局自分は承認欲求で書いてるのか、と落胆する。

何よりも書くことが好きだから書いているんじゃないのか。

結局褒められたいだけなのか。

褒められない、認められないのが辛いんじゃなくて、褒められたい、認められたいと思っている自分が在ることが、なんかしんどい。

才能がある人が世に出やすくなったのは良い時代だが、それと同時に周りの才能が可視化されやすくなり、承認欲求と結びついてしまったのは現代の辛いところだ。

新人賞に応募する作品は、決して発表することは許されない。

だからといって、その作品と並行してなにかみんなに読んでもらえるような短編などを書く器用さは私にはない。

作品を世に出してないから反応がないのは無論当たり前のことだが、ひとつの作品を創り上げるというのはこんなに孤独な戦いだったのかと打ちひしがれる毎日。

自分の中の承認欲求に気づくたびに落ち込むが、それと同時に、何かを創り上げる以上は、褒められたい、認められたいという感情と切っては切り離せないなと感じてもいる。

もちろん自分が好きだから書いたり描いたりしてるんであるが、自分のファンが1人もいないという状況は創作者にとってはキツイと思う。

「好きなことを続けること それは楽しいだけじゃない」

YOASOBIの「群青」という曲の歌詞の引用だが、最近本当に身に染みている。

フォロワー数やいいね数だけが全てじゃない。わかってはいるけども、やっぱり反応は欲しい。

今は、忍耐の時期だと思って、一つの作品を書き上げることを目標に、ただそれだけを目指す。

好きなものと向き合うことって、怖いこと。

それは、自分の才能だったり、努力と向き合うことだから。

でも、走り続ければ、きっと何か見える世界があるはず。

そう願って。

「大丈夫 行こう あとは楽しむだけだ」

そう思える日が、来るといいな。

セクシュアリティのおはなし

私は、今まで「パンセクシャル」を自認してきた。

パンセクシャルとは、男も女も、それ以外を自認する人も全て恋愛対象とする性的指向、いわゆる全性愛者のことである。

しかし、最近、違和感が生まれてきた。

いや、待てよ?

私、そもそも「恋愛感情」、あるか??

22年間生きてきて、恋愛感情、感じたことってないかも!!

衝撃の事実である。

一旦話を整理しよう。

私は、女の子も好きだし、男の人も普通に好きだし、そうじゃない人だって、全然オールオッケーだ。

そう思っていた。

今までは。

しかし、私が今まで好きな人間に対して抱いていた感情って、「恋愛」じゃないのでは??

そう気付いた。

私には彼氏がいるが、彼のことはもちろん好きだ。

でも、それってLOVEじゃなくてLIKEなんじゃないのか。

その証拠に、女の子の友達と一緒に過ごしている時の気持ちと、彼氏と一緒にいる時の気持ちに、大して変わりがない。

一緒にいて楽しいな、落ち着くな、一緒にいたいな、そんな気持ちで友達とも彼氏とも接している。

彼氏はいるけれど、特別な契約関係を結んだ親友くらいの感覚でいる。

別に「彼氏」「恋人」という感覚ではなく、便宜上交際関係にあった方が便利だからだ。恋愛してるという感覚はない。

ドキドキするとかは誰に対しても無く、友達も彼氏も同じベクトルで好きなのだ。

そのことに気付いた時、結構びっくりした。

もしかして世間の人々って、恋人のことを友達とは違うベクトルで愛しているのか!?

「LOVE」という感情が明確にあるんだ!

カルチャーショックと言っても過言ではない。

一応調べてみると、恋愛感情がないセクシュアリティのことをアロマンティック、友情と恋愛の違いがないセクシュアリティのことをクォイロマンティックと呼ぶらしい。

あぁ、私って、恋愛対象として人間を見たこと、なかったんや…。

22歳にして初の気付きである。

ちなみに言うと、性欲はあるし、セックスをすることに抵抗はない。

逆に言うと、誰にもドキドキしないからこそ男女問わずスキンシップだったり性的な関係を持つことに抵抗がないのかもしれない。私は多分、女友達とキスしろと言われたら全然すぐできると思う。

今まで世間の人々が男とか女とかに拘る意味がわからなかったが、そらそうか。

いやー、人生ってわからないものですね。

22歳にもなって中学生みたいなことに今更気付く。

おもしれぇなぁ。

言うとる場合か。

みなさんは恋愛感情、ありますか。

私はどうやら、ないみたいです。

ワハハ。

でも、好きな人がたくさんいた方が、人生が楽しくて、お得だ。

彼氏も友達も、みんな大好き。

それでいいじゃないか。

人間が好きだよ。私は。

というわけで、私の周りにいる人々、これからもよろしくね。

たくさん遊んでね。

私はそれで満足なので…。

左利きの苦悩、の巻

あまりTwitterなどインターネットでは公言していなかったが、実は私は、左利きである。

人口の約1割ほどしか存在しないと言われる、左利き。

学校では1クラスにつき1人はいただろう。

レアな存在ではあるものの、特にアイデンティティになるような代物ではなく、自慢できるものではないので、特にわざわざ公言することはしてこなかった。

しかし、左利きも歴としたマイノリティである。

であるからして、マイノリティなりの苦労も当然ある。

たとえば。

学校や職場に置いてある備品の事務用品は、ほとんど右利き用である。

最近は左利き用も用意してくれる優しいところもあるが、ほとんどの場合右利き用しかない。

しかし、我々左利きもそんなことで今更不便だ不便だと嘆くほどヤワじゃない。

幼いころからそのような過酷な状況に置かれているため、ほとんどの左利きは右利き用のハサミを使うことができる。(と、思う)

だが、ビュッフェやスープバーなどに置いてある、レードル。

アレだけは許さん。

めちゃくちゃ、溢れるんじゃ。

スープが。

注ぎにくいったらありゃしない。

あと、横書きの筆記の場合、我々の左手の側面は、たいてい無惨なことになる。

書きやすいのは、国語のノートくらいだ。

左利きだと、何かと不便だ。

バイトでお札の数え方を教えてもらう時、「あっ、左利きか…」と気まずそうに言った先輩の顔を、今でも忘れない。

高校の柔道の授業で、たまたま同じ授業にいた別の左利きと一緒に組まされたことも。

ちなみに余談だが、その時一緒に組んだ左利きの子とはとっくに高校を卒業した今もまだ一緒に遊ぶ仲だ。

しかし、そのような不便さなど屁でもないほど、我々にとって困ることがある。

それは、「天才肌」「個性的」などと言われることだ。

先述のように、我々左利きは幼い頃から強制的に右利き用の道具を使わされているため、手先は器用であることが多い。

それ故、なんとなく頭もいいように見えるのかもしれない。

令和の今でも、「左利きは右脳派だから芸術的だ、クリエイティブだ」などという迷信を信じている人もいる。

端的に言って、そんなわけがない。

そもそも、左脳右脳の能力の違いなど科学的な根拠はない。

全くの嘘っぱちだと、私は思っている。

「左利きには、変わった人が多い」

そういう俗説もあるが、これは単に左利きのそもそもの母数が少ない故のバイアスなのではないかと思う。

母数が少ないから、1人変わった人がいるだけでそういう印象になってしまう。

利き手で性格が変わるなんて有り得ないし、左利きにも様々な性格の人がいる。

社交的な人もいれば控えめな人もおり、アウトドア派もいればインドア派もいる。

それは当たり前のことだろう。

利き手なんて、単にどっちの手を使って生活しているかの違いだけなのだから。

人間はほぼほぼ右利きだが、左利きが少ない理由についてはまだ解明されていないらしい。

あと、いつどのように利き手が決定するのかについても、まだハッキリとはわかっていない。

これに関しては、普通に興味があるので研究が進んでほしいと思う。

これを読んでいる皆さんの中には、左利きに憧れたことがある人はいるだろうか。

左手で箸を使う練習をしたことがある人もいるかもしれない。

左利きは、一番身近なマイノリティだ。

マイノリティ故、「みんなと違う」という部分で、かっこよく感じる人もいるだろう。

しかし、一度考え直してみてほしい。

これは、性的マイノリティや障害者など、様々なマイノリティ問題に通じると思うのだが、数が少ない、みんなとは違う、ということは、それだけ理解されにくいということだ。

左利きにも、先述の通り様々な障壁がある。

それは、単に「かっこいい」だけでは済まされないものがある。

というかそもそも、我々にとって左手を使って生活することは寝て食べることと同じくらい当たり前のことなので、かっこいいとかいう自認もない。

我々にとっては、当たり前の日常なのだ。

君たち右利きは、ドアノブが大体右側についていることや、駅の改札の切符口やICカードのタッチ部分が右側についていること、はさみを当たり前のように使えること、などに一生気付かないまま、そのマジョリティ特権に気付かないままでいなさい。

無理して左利きなんかにならなくていい。

単純に不便だし。

もしあなたが、本気で左利きになりたいというのなら、別に止めはしないが、本当に本気なら、その矯正の最中で、私が散々言った障壁に気付くことだろう。

それが、マイノリティということだ。

みんなちがって、みんないい。

そんなふうに生きられたらいいけれども、残念ながら社会はまだまだそのようになっていない。

差別や偏見は、根強くこの社会に残っている。

それらは、人類がこの地球上に存在する以上、永遠の課題なのかもしれない。

様々なマイノリティに理解を、と促進しても、なかなか進まない現状がある。

一筋縄ではいかない問題だが、まずは身近な人々のことを少し考えてみるだけで、違ってくるのではないかと思う。

自分の周りから、変えていこう。

そして、左利きにも、優しい社会を。

私は、切に願う。

 

 

 

小説を書いている

最近、本腰を入れて小説を書いている。去年から書き始めてはいたものの、全く進んでいなかった作品を完成させるべく。

職場にマイPCを持ち込んで、休憩時間に書く。

今のところ三日坊主に終わらず、続いている。

休憩中にただ漫然とスマホを弄るより、なんとなく有意義に過ごしている感じがするし、なんとなく勤勉な感じがしてなんとなくカッコいいと思っている。なんとなく。

もちろんそんな雰囲気だけではない。休憩時間は1時間しかないが、コレが結構進むのだ。

400字詰め原稿用紙2枚分くらいは毎日進捗がある。

1日に2枚も進めば、チリツモで結構な進捗になるだろう。

今年の10月〆切の新人賞に応募したく書き進めているが、あと原稿用紙45枚くらい書かなければならず、心が折れそうだがチリツモの力を信じて頑張る。

なぜ今になって小説を書き始めたのかというと、ここ数年、何かに夢中になって頑張ったことがないような気がしたからだ。

なんとなくで今まで生きてきたけれど、もう一度、夢を追いかけてみたい。

今年に入ってからふとそう思った。

金はないけど時間は無駄にあるし、もう少し自分の人生に夢を見たかった。

単なるフリーターから夢追い人にランクアップ(?)した私であったが、生活は変わらず、ただスキマ時間に小説を執筆しているだけ。

コツコツやって必ず書き上げたい。

他人の作品からインプットこそすれ、自分と比べないこと。

私の最終的な目標は太宰治なのだが、太宰治の作品はあまりにも完璧すぎるので、あまり打ちひしがれないこと。

才能がどうとかより、ちゃんと完成させて賞に送ること。

買わない宝くじが当たらないのと同じで、作品を完成させずにグダグダしていても何も始まらない。

こんな感じのことをなんとなく頭の片隅に置きながら、創作活動を続けている。

結果が着いてくればもちろん嬉しいけれども、まずは完成させることができれば御の字。

何も続かなかった私がひとつの作品を最後までやり切ることができれば、何かの自信に繋がるはずだ。

とはいえ、マジで私の人生を賭けていると言っても過言ではないくらいの作品なので、結果が欲しい気持ちももちろんある。

これで掠りもしなかったら、そこで創作や書くことを辞めてしまうんじゃないかという不安もあるが、結果のことは今は考えずにとりあえず書き上げてみたい。

才能があるかないかは二の次。

才能があっても、やり切らなければ宝の持ち腐れ。

才能がなくても、やり切ることができれば未来はある。

作品を賞に出して、そのあとどうなるかはわからないけど、いい方向に向かうと信じて、頑張ってみる。

皆様方に置かれましては、生温かい目で見守っていただけると幸いに存じます。

賞に出すのでインターネット等で発表することは出来ず、作品をお見せできないのが残念だが、楽しみにしていてください。

必ず良い結果を出します、とは怖くて断言できないが、きっと、何かの形でやったことが返ってくると信じて。

一つだけ今回の作品について言えることは、「才能」に囚われた女の子の話だということ。

才能ってなんだろう。何者かになりたいという欲求。

そんなことをテーマに、書いてみている。

 

無事に書き上げて、皆さんに良い報告が出来るように、頑張ります。

このブログで良い結果報告の更新ができることを信じて。

それでは!