因果な家

本を読んだりしていたらうちの母方の家系のことを思い出したので、朧げな記憶を辿りながら書いてみる。身バレしない程度に。

 

うちの母親の母親、つまり祖母は、そこそこ劣悪な家庭環境で育った。

大阪で生まれ、祖母自身は真ん中っ子、姉と妹の三姉妹だった。

祖母の母親、つまり私から見て曾祖母は、今で言う毒親

一番上の姉は幼い頃から容姿が整っていて可愛らしく、祖母の母は姉ばかりを可愛がった。

そして、一番下の妹は病弱。なので曾祖母は姉を一番可愛がって妹の世話や家事など全て祖母に押し付けていたらしい。

曾祖母は仕事が忙しいと言ってほとんど家に帰らず、家の事はみんな幼いながら祖母がしていた。

そして確か祖母が中1くらいの頃、家が全焼する事件があった。

学校の教科書なども全て燃えてしまい、そのせいもあってあまり勉強もできなかったと言う。

姉は着飾ってフラフラ遊び回り、祖母は一人で家を支えていくしかなかった。

記憶が定かではないが姉が20歳くらいの頃、様子がおかしくなった。

そして、統合失調症と診断され、そのあと一生半世紀を病院で過ごすこととなった。

祖母は実家で経営していた喫茶店を手伝っていた頃にやってきた男性と結婚。

この男性、つまり私の祖父もなかなか壮絶な生い立ちであった。

あまり話を聞いていないので確かではないが祖父は東京で生まれ、なんやかんやあって親に捨てられて大阪の叔父か誰かに引き取られたらしい。

そして、私の母とその弟が生まれた。

弟は20代の頃に鬱病を患い、25で自殺してしまった。

祖父はアルコール依存症でたびたび祖母を悩ませたらしい。

祖父は52歳くらいで肝機能不全かなんかのアルコールによる病気で亡くなった。

そこから祖母は鬱病になったらしい。

そして私が生まれてしばらくして私が中学くらいの時に、統合失調症で入院している祖母の姉が、ガンになった。

曾祖母はとっくに亡くなっていたが、薄情なことに姉のお見舞いにはほとんど行っていなかったらしい。可愛がっていたのに。

祖母は若くして精神病を患い人生のほとんどを病院で過ごした姉を不憫に思い、お見舞いに何度も行き世話をした。

姉は若い頃妄想がひどく自分の父親が流行りの2枚目俳優だと主張したりしていたらしい。

しかし晩年は「なぜ私だけずっと病院にいなければならないの」と言っていた。

祖母の世話もあって晩年はガンに侵されながら笑顔を見せることもあった。

そして姉が亡くなり、参列者は祖母と私の母だけの質素なお葬式が執り行われた。

祖母はよく、「〇〇ちゃん(姉のあだ名)の人生はなんやったんやろう。最期だけでも幸せやったやろか」と言っていた。

そして、2021年3月頃、祖母の様子がおかしくなった。

関西で一人暮らししていた祖母を母が慌てて神奈川に連れてきた。

鬱病が再発したのだと診断され、精神科に入院することになった。

しばらく祖母は私の家にいたが、貧困妄想が激しく、「お金がない。家が差し押さえになる。印鑑を関西の家に置いてきたから今から取りに行く」と言い張って聞かず、なんとかなだめるのが大変だった。

そして、精神科に入院している最中だった。

それは突然だった。

祖母が亡くなってしまった。

親は祖母の死因を教えてくれなかったが、死亡診断書をこっそり覗くとやはり自殺だった。

74歳であった。

祖母と母は生前仲があまり良くなくケンカばかりしていた。

私が幼稚園生の頃に2人が激しいケンカをして2人とも泣いていたのを今でもハッキリ覚えている。

それなのに、祖母が亡くなったことが母にとって相当ショックだったらしく、母も適応障害を発症していたがその症状が酷くなっていた。

しかし、祖母の身寄りは母しかいなかったので相続や色々の手続きを全て母1人で行った。

そして今に至る。

見ての通り精神疾患の家系で私自身もその血を濃く引き継いでいる。

このような因果な家で育った私も精神疾患を患っているし、もはや呪いと言ってもいいかもしれない。こんな呪われた血を継ぐ私は子供は作りたくないなと思う。私の代でできれば終わりにしたい。祖母や祖母の姉、母の弟などが天国で安らかに眠っていることを願うし、私がそちらに行った時に笑顔で会いたいと思う。それまでしばしの付き合いである。では、また会う日まで。

 

 

 

 

病状

2022年。

私は大学を休学し、自由気ままなライフを満喫していた。

ご飯もたくさん食べられるしバイトにも遊びにも行けるし、もう病は治ったのだと思っていた。

そして8月、21回目の誕生日を迎えた矢先、「それ」はやってきた。

 

 

古参のフォロワーはもう耳タコかもしれないが、私は高校の時にうつ状態を伴う適応障害と診断された。

高校の頃の鬱のどん底を脱すると小康状態と調子が落ちる状態を交互に繰り返しながら闘病していた。

大学に通っていた頃は大学が思っていた以上につらくて調子が落ちる時もあった。

そして、休学した。

するとたちまち元気になった。

こんなに元気な状態はここ数年で初めてだった。

どこも痛くないし倦怠感もなく頭もスッキリしていてエネルギッシュである。

バイトもほぼ遅刻欠勤なし、休みの日も出かけることが多かった。

一応精神科への通院と服薬は続けていたが、正直もう治るものだとばかり思っていたし、服薬もサボりがちで、こんなに元気なのになぜ病院に行かなければならないんだとさえ思っていた。

しかし、それがいけなかった。甘かった。

21歳の誕生日を迎えると、まず倦怠感が現れてバイトを休んでしまった。最初は暑さでやられたのだろうと思っていた。1日休むととりあえず元気になり、バイトにも行けた。そこから約10日間は元気で旅行にも行けたし、一時的なものだろうと思った。

しかし、旅行から帰った翌日、バイト中に頭がぼんやりして気を抜くと意識を失ってしまいそうになった。

旅行疲れだ、休めば治る、と思ったが翌日悪化していて頭がふわふわして気持ち悪く、バイトに行けなかった。

倦怠感も強く布団から起き上がるのも億劫になっていた。

ご飯が食べられなくなり2日で体重が2㎏減った。

そして、体調以上にメンタルがおかしくなった。

このままバイトにも行けず何もできなくなったらどうしようという不安感が強くなり気分が塞いだ。

ここでわかった。お馴染みのアレだ。

鬱くんだ。

次第に気持ちは落ちていき希死念慮も出てきた。

そして今も鬱々としている。

 

自分の今とこれまでの病状を振り返ってみて、自分は双極性障害なのではないかという疑いが出てきた。

これまでも良くなったり悪くなったりを繰り返していたが、やはりここ最近は私にしては元気すぎた。

双極性障害はざっくり言うと元気な時期である「躁」と、言わずと知れた「鬱」を繰り返す病気である。

躁と鬱が切り替わるスパンは人によって様々で、数年単位の人もいればコロコロ変わる人もいる。

私のここ最近は軽躁状態であったと考えられる。

躁の状態は元気なんだからいいじゃないか。

そう思う人もいるかもしれないが、躁も厄介なのである。

あまり眠らなくても平気になったり、やたらと浪費をしたり、攻撃的になったりする。

私の場合は攻撃的になったりすることはなかったが疲れ知らずで動き回ったり、物欲が大きくなったりしていた。

また、性的逸脱行動も躁状態の特徴らしく、お恥ずかしい話ここ最近はなかったが19くらいの時に節操がなかった時期があり今思えばその時も軽躁だったと思う。

また食べることがやめられなくなり体重がとても増えた。

食欲、性欲、物欲など本能が抑えられなくなるのが躁の特徴らしい。

心当たりがありすぎる。

また躁の場合とりとめもないアイデアがたくさん湧く。私も海外に行きたいとか小説を書きたいだとか色々考えたがどれもいまいち現実味がない。

ただ私の場合普段より少し元気なくらいなのでわかりにくく、普通に治ってきている状態と区別がついていなかった。

双極性障害はI型とII型があり、I型の場合躁状態の時は借金をしたり浮気をしたり時には犯罪を犯してしまったりするらしいが、II型は比較的躁が軽く軽躁と呼ばれる状態になる。

双極性障害の診断は難しく数年かかるのが普通らしい。ずっとエビリファイという薬が処方されていて、これは双極性障害の治療にも使われる薬らしい。今月で精神科に通って丸4年が経ったので、もうすぐ診断名が変わるのではないかと思う。主治医は病名を告知しないタイプなのでもしかしたらもう変わっているかもしれない。

もし本当に双極性障害だったとしたら、結構長い付き合いになりそうだ。自殺率も高い病気なので薬を飲みながらうまく付き合っていくしかない。

躁状態だと体重が増えて鬱だと減るので、転じる時の目安になりそうだ。この他にも切り替わる時のサインがありそうなので用心深く見ていこう。

これからどうなるかはわからないが、付き合い方を色々模索していこう。何か病気などについて知っている方がおられたら是非教えていただきたい。つまらない自分語りにここまで付き合ってくれた方はありがとうございました。死なないように頑張ります。

 

 

 

まともに生きるのやーめっぴ2022

2022年。

私はまともに生きるのをやめた。

いや、意識してやめた訳ではない。

自分の心地いい過ごし方を模索していたら、たまたま、まともではなかったと言った方が正しいかもしれない。

まず経緯から話そう。

フォロワーはご存知かもしれないが、私は高校2年生の時に適応障害になり、高校を1年留年した。そして今も治療中である。

そしてそして、発達特性があることもわかった。発達障害の診断は降りなかったけども。

私は中学の頃は勉強がよくできた。

数学はからっきしダメだったものの、国語英語は偏差値70、通知表には5が並んだ。

そして、私には難しいと言われた高校を目指し、見事合格。順風満帆であった。

当時の私は、良い意味でも悪い意味でも真面目だった。自分は勉強ができるし、このまま高校でも良い成績を取り良い大学に行ってそれなりのところに就職するんだ。そう信じて疑わなかった。そのためには、多少無理しても頑張らなければならない。今思うと、その時点でもう無理が生じていたのかもしれない。

そんなこともあって高校でうつ状態になり、高校を留年した。

だが、まだここでは諦めない。

大学進学を目指した。

自分自身の経験から福祉を志した。

だが勉強には身が入らず、大学受験はほぼノー勉で臨んだ。

それでも一応偏差値50の福祉系大学に合格し、進んだ。

しかし。

意外とキツキツな時間割、山のような課題、オンラインと対面授業の同時並行。

私はすぐに体調を崩し休みがちで、不注意特性のせいか課題は提出できず、あれよあれよと言う間に単位はいくつもお亡くなりになった。

私は疲れ果てて、大学を休む決意をした。

そして休学手続きをし、今は休学中である。

週3でアルバイトをし、自由気ままな生活を送っている。

大学は、辞めようと思っている。

この間、中学の時に通っていた塾で同じクラスだったメンバーと、そこで教えてもらっていた当時大学生だった講師で久しぶりに飲みがあった。

昔話に花が咲き、近況報告をし合う中で、私が大学を辞めようと思っているという話をしたら、その大学生講師が、大学は卒業した方がいい、と言ってきた。

確かに、彼の言うことは正しい。そりゃあ学校は卒業するに越したことはない。私だって出来るならしている。

しかし。

と私は思った。

あれからずっとモヤモヤした気持ちを抱え考え込んでいたが、やっと答えのようなものが出た。

私は、まともに生きられないのだ。

それこそ中学の時に思い描いていたような道は辿れないのだ。

自分の心地いい道。心地いい過ごし方。心地いいペースで生きるには、どうしても多少まともからは外れざるを得ない。

今はうつ状態の治療中だし、もし治ったらもしかしたらまたまともに生きられるかもしれない。

しかし、今はまだ出来ない。

自分の心地いいペースで生きたい。

甘えや怠けだと思われるかもしれないが、もうそれでもいい。

今自分の一番心地いいペースで過ごせていて、実際体調も精神面もここ数年で一番調子が良い。

無理に世間の当たり前に自分を当てはめずに、その時心地よいと感じるペースで生きられるように都度調整していくことが大事だと感じる。

もちろん、私がこのように生きるためには周りの人たちの支えが不可欠だ。

感謝を絶やさずにいたい。

しかし、こんな悠長なことを言っていられるのも長くはないかもしれない。

もしかしたらこの先まともに生きなかった代償が来るかもしれない。

でも、その時はその時だ。

その時また考えよう。

人はいつか死ぬし。

ハタチそこそこの浅い考えなのでこれから変わる可能性は多分にある。

やっぱりちゃんとしとけばよかったなーって思うかもしれない。

しかし今は非常に刹那的に生きているので、今が楽しければそれでよい。

今まで未来のことを考えすぎてしんどくなっていたのだから、現在のことだけ考えていればよい。

確かに言えるのは、今が楽しいということだ。

これから先も楽しく生きられたらいいなと思う。

以上が大学中退高卒フリーターになる予定の限界大学生の世迷言でした。

こうはなりたくないなぁと反面教師にするのもヨシだが、そうやって生きるのもあるのかと思っていただければ幸いである。では、また今度。

助けてくれ

助けてくれ。

これが今の私の率直な気持ちだ。

 

私は今、様々なタスクや問題を抱えている。

親のこともそうだし、大学の課題、もうすぐ始めなければならないアルバイト、魔窟と化した部屋の片付けなど…

こうやって数を挙げてみるとそこまでやること多くもないなという気がしてくるが、なにせ私のキャパは驚くほど小さい。

それに一つ一つが重い。

量ではなく、質なのだ。

ここでひとつ今の一番の心配事を発表しよう。

明日(2021/03/28)、親と彼氏の顔合わせがある。

結婚するわけでもないしまだ付き合って間もないのに顔合わせ?と思うだろう。

私もそう思う。

それに、親が認めた人間でないと許さないという親の価値観に合わせるのは正直癪だ。彼氏にも負担がかかるし、今時そんなのはおかしいと思う。

でも、直接会って話をしないことにはどうにもならないという結論に至ったのでこうなった。

 

それを私は何故心配し、不安に思っているのか。

改めて言葉にするのは照れるが、もちろん彼は良い人だ。親切だし、誠実だとも思う。うちの親にもそのように振る舞ってくれるであろう。

しかし、うちの親のことである。

親に、「(彼が)私たちを気遣うような発言はなかったのか」という旨のことを言われたことがある。

まだ会ってもないのにもう難癖をつけてきている。

これで直接会ったら些細な言葉尻や態度などを捉えてアレコレ言うのではという懸念がある。

とにかく私は悪い方向に行きがちで、明日全てが破綻してしまうのでは、とまで考えてしまっている。

私の考えすぎ、杞憂であってほしい。

今これを書いていて、親を安心させることがどれだけ私のストレスであるかがよくわかった。母親は心配、心配とそればかり言って自分が安心するためなら相手の多少の苦痛や犠牲などは考えない人だ。

いつになったら私は親を安心させるためでなく、自分の人生を歩めるのだろう。

まあ今はもう決定してしまった明日の顔合わせのことを考えるしかない。

本当に憂鬱だ。

しかし、こうやって文章にしてみたら、少し心が軽くなった気がする。

心が軽くなっただけで何も解決はしていないのだが、心が軽くなるのは良い事だ。

もう明日なんとかなるように祈るしかない。

助けてくれ〜

 

「いい子」の仮面を外す時

私は、所謂「いい子」だった。

すぐに怒鳴るし物に当たる母親、それに何も言わない父親の元で育った。

小学生までは、それがおかしいとは思わなかった。他の家庭を知らないから。学校では教えてもらえないから。

中学では、学校に友達がいなくていつも一人で、でも親には相談できなかった。成績が良かったから家での扱いは良かった。だから特に問題は起こらなかった。

英語がやりたくて公立のそこそこの偏差値の高校に進んだが、英語の勉強は思うように進まなかった。

そして、高2のある時、私の心は折れてしまった。

私は心をグラスに例えるのが好きなのだが、それで言うならばグラスが完全に割れてしまった。

親はそんな自分をメンタルクリニックに連れて行ってくれた。学校を半年休ませてくれた。

そうしてなんとか心のグラスを引っ付けて少しいびつではあるが元の形に少しずつ戻ってきた。

心の形が戻るにつれて、家以外の世界が出来てきた。

インターネットを通して色々な人と話したりするようになり、お付き合いをするような人も出来た。

私はかなり成長するまで家しか世界がなかった。家族の仲が良いと思っていたし、実際家族以上に付き合いがある人なんていなかった。

反面、その家族の絆は脆く壊れやすいものでもあった。私に限らず誰かの我慢という薄氷の上で成り立っているものだった。

そして、今その薄氷は崩れようとしている。表面上は、まだ家族の形を保っているように見えるかもしれない。でも、私はもう限界だ。

親は100%悪者ではないし、私にも悪いところはある。もう仕方がなかったのだと思うしかない。そもそも、血縁関係があるというだけの他人同士を引っ付けておくのが土台無理な話ではないのか、なんて考える。

とにかく、私はもう「いい子」ではない。私も間違ってしまったかもしれないし、やっぱり親の言う通りにすればよかった、と今後思うかもしれない。しかし、これ以上「いい子」でいるのは無理なのだ。それは紛れもない事実である。むしろ、19年も「いい子」を続けられたことがすごいと自分で思う。

経験不足だしまだ若いからモノを知らない、向こう見ずだ、恩知らずと思う人もいるかもしれない。でもこれは私の人生だし、これからは自分自身で決めていかなければならない。

私の心のグラスはヒビだらけだ。なんとかまた割れないように、私は私のグラスを守っていかなければならない。そして、またグラスに水を注げるように。いや、水じゃなくてもいい。コーラでも、オレンジジュースでも、ワインでも、なんでも好きな物を注いで。

私は私の世界を大切にする。この先どうなるかは全くわからないけれど、大切な物は手放さずにいたい。

今まで私の世界は家だった、でもそれが時と共に切り替わった。ただそれだけなのだ。

なかなか道のりは遠そうだが、自分の世界を守っていきたいと今は思う。

Some things that I feel about Yonezu(米津玄師に関する幾つかの事)

中島です。はてなブログにお引越ししました。

 

私は米津玄師の音楽が大好きなのだが、最近その思いが溢れてくるようになったので書き留めたいと思う。

前もって言っておくが、私は音楽に関しては素人だし、テレビや雑誌での米津玄師のインタビューなどもほとんど見たことがない。そのため、所謂「解釈違い」が生じるかもしれないし、彼の本来の意図やメッセージと異なることもあるが、あくまで一個人の意見として受け取って頂きたい。長文駄文になるが、よろしくお付き合い願う。

 

私は小学生の時にハチとしての彼に出会い、それから彼の音楽を聴いてきた。小学生の時は歌詞をそのまま受け取るのみだったが、成長し、また曲をよく聴き込んでわかったことがいくつかある。

 

米津玄師の音楽の魅力は、キャッチーで独特なメロディももちろんだが、あの一見不思議な歌詞にあると思う。というか、私はメロディに関しては「なんかよくわからんけどいいなあ」みたいなことしか言えないので、歌詞に言及したい。

 

彼の書く歌詞は、思いついた言葉を並べたように見える時もある。だが、よく聴き込むと背景にある思いが見えてくる。

 

彼の思いは、それぞれの曲によっても違うしもちろん聴き手によって受け取るものも違うが、私が受け取ったのは「孤独」である。

 

Foorinに提供し爆発的なヒットを残したパプリカにも、その孤独が見てとれる。

「喜びを数えたらあなたでいっぱい」と、一見ポジティブなようだが、そのあとに「帰り道を照らしたのは想い出の影法師」と続く。行きの道ではなく帰り道、今の感情ではなく想い出、というところに現れていると思う。喜びでいっぱいだったのは既に過去のことなんだ、という風にも受け取れる。

同じく大ヒット曲のLemonは、愛していた人との別れの曲だ。

この2曲から、必ず別れはやってくる、永遠の愛などないという思いが見える。

 

この2つは少し意図が読みづらいところもあるが、少しマイナーな曲にはもっとあからさまなものを感じる。

「LOSER」のカップリング曲「amen」なんかがそうだ。この曲では、彼の厭世観が強く出ているように思う。

アルバム「BOOTLEG」にある「Moonlight」は孤独を歌った曲だ。「どこへ行ってもアウトサイダー」とあるように、居場所がない、わからないという強い孤独感がある。

 

彼の抱いている孤独は、多かれ少なかれ誰もが潜在的に抱いているものだと思う。だから、ここまで多くの人の心に響くのだ。

 

昭和の文豪、太宰治はたくさんの愛人がいたことで有名だが、彼の代表作「人間失格」では強い孤独感を描いている。誰もが感じている孤独を描くのが上手いのは、太宰治と米津玄師の両者に共通していると思う。

 

誰もが感じている孤独、と言ったが、米津玄師が感じている孤独は計り知れないな、と感じる。それは、彼が高機能自閉症という発達障害を抱えているという背景からもわかるだろう。おそらく、彼も自分が人と違うことを感じていて、それが自覚的かどうかに関わらず悩んだのではないだろうか。

 

また、改めて言うことでもないが彼は天才である。凡人の私には想像もできない孤独や苦悩を抱えているのだと思う。

 

色々な意味で「人と違う」彼が創作活動によって得た大衆的な人気を、彼自身はどう感じているのだろうか。

 

わかったような口をきいて恐縮だが、繊細な彼のことだから色々感じるところもあるのだろう。

 

しかし、彼はその「思い」を創作活動に昇華するだろうし、また私自身もそれを期待している。

 

一つ言えるのは、私はこれからも彼の書く曲を聴き続けるし、応援したいということだ。私のような一人の一般人が応援したいだなんてわざわざ言うのも気がひけるが、一般人が出来ることなんて応援することしかないから仕方ない。

彼の作品を買って、たくさん聴いて応援していくしかない。

 

ここまでいちファンの戯言をつらつら述べたが、ここまで読んでいただいた方には感謝したい。きっとこれからいいことがあるよ。

 

それでは。